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今家印刷の思い
私は、昭和十四年鹿児島奄美群島のひとつ喜界島で生まれました。
五歳のころ、戦争が激化し、知覧と沖縄の中間に位置する喜界島は戦闘機の中継基地であったため、激しい攻撃を受けました。丘の上から、自分の集落、自分の家が焼かれていく光景を忘れられません。兄もそのとき病気で亡くしました。
そのため、島は貧しさを極めました。戦後初めての小学校入学の子供でしたが、二丁(約6000坪)あったサトウキビの畑を一家で運営していかねばならず、私も農作業の一員として小学校時代を過ごしました。馬の世話、草むしり、圧搾機械の購入交渉など大人以上に働きました。
勉強はしたくてもできませんでした。学校の教科書は児童全員の分がなく、「どうせ今家は勉強しないだろう」ということで私には回ってきませんでした。それでも、本は好きで、都会で印刷会社を営む大先輩から学校へ送られてくる本は全部読みました。いつしか自分も都会に出て、社長になりたいと思うようになり、「おれは社長になる」と周りにも公言しました。子供の言うことですが、この子はそうなるだろうと皆思ったらしく、「社長になったら、うちの孫を頼みます」と託されました。
社長になるには進学する時間はもったいないと思い、十五歳で田舎に本を送り続けてくださった大先輩の印刷会社を頼り上京しました。丁稚奉公(昔は、年少のうちから下働きとして住み込みで勤める慣習がありました)で働き活版印刷を覚えました。昼休みなどは休まず中馬の二回転の機械(当時としては最新鋭の機械でかつ操作が難しかった機械)の練習をし、ムラ取りというページごとに印刷濃度を均一にする作業を他の人の三分の一の時間できれいに、手差し(当時は自動給紙でなく、人が一枚一枚機械に供給する作業が必要でした)も人に負けませんでした。二十歳になる頃には、会社で一番の職人になっていました。
今、私の会社では五十名の社員が働いていますが、社員には私が体験したような貧乏な生活は決してさせず幸せで豊かな生活を送って欲しい、そして若い人が生き生きと働くことが出来る職場にしたいという思いでずっとやってきております。
そして最新鋭の設備と考え抜いた工夫でどこの会社にも負けない仕事をやってきました。これからもその思いでお得意先、社会に役立つ会社を目指してまいります。そして「真心を戴ける」会社を目指してまいります。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。